経済問題の続き
3:競争原理は、比較可能な統一基準の下でしか機能しない。
そもそも、競争って、同じ条件、同じルールでやらなければ、競争に意味はないでしょう。 一方が車に乗って、一方が徒歩で、遠方に行く、はなっから結果が見える競争は不毛です。 機会均等でなければなりません。 野球のピッチャーが柔道家めがけて剛速球を投げてどっちが勝つか競争するなど論外です。 同じルールや価値観を共有するコミュニティを越えた勝負は、そもそも成立しません。
自由競争社会とは何の自由なのでしょう。 私はだれもが努力によって自由に活躍できるチャンスを得ることが出来る、機会均等のことだと教わってきました。 町の商店街が消えゆくのは、商店主の怠慢ではなく、大規模店舗出店規制が解除されたことによる、 大資本対個人という、勝負がはなっから決まっている経済構造を政治が作ったことが原因です。 これを”自由競争”と言えるのでしょうか。 我々は、買い物でわずかばかりの得をしたように感じさせられながら、それが正義であるかのような幻覚を見さされています。
農業先進国のアメリカでは、個人農業主は壊滅状態。 ほとんどが法人化され、地域経済やコミュニティを破壊し、人口がさらに流出。公立学校も各地で消滅。 これを日本でもやろうという動きが強まっています。農業の企業化の行き着く先は、地方コミュニティの壊滅です。
多くの酒屋がコンビニエンスストアのフランチャイズ経営傘下に置かれて行き着いた先が、企業化農業の未来を示します。 生産計画の自由を奪われ、上が決めたものを画一的に作る農産物派遣労働者として、24時間働く未来が待っています。
農業に競争原理は不要です。今年1トンの米を作って、来年はがんばって2トンにして、翌年は3トン・・・あり得ません。 農業は命を支える産業です。今年得られたように来年も作物が実る。これを営々と繰り返すのが農業です。 無理矢理に競争させる必要がどこにあるのですか。 工業や商業のルールに農業を無理矢理会わせることは不毛です。 要は、経済という比較可能な価値観に、農業の方を合わさせる、その無理の目的は、経済的理由以外にないのです。
教育も同じ。学校での競争はクラスや研究室内での学習意欲を高める手段に過ぎない。いつからそれを全国比較して高得点を取ることを目的化したのか。 小中の全国共通テスト、大学での論文の数の比較は何を目的としているのか。 この分野でも、その無理の目的は、経済的理由以外にないのです。ただし公立学校では、予算削減の口実として機能します。
農林水畜産業や教育を経済システムに全面的に乗せてはなりません。 全てを経済の競争原理にゆだねることは、食料生産や教育までも、すなわち命や個人の価値観や個性までも、 資本として同じ土俵で取り扱うこと、すなわち資本を握った者が好きなように出来ることを意味します。
”資本主義”と”共産主義”とは反意語ではありません。 ”資本主義”も”共産主義”も”帝国主義”も、支配者が異なるだけで、資本家や国家が資本を支配することを通じて人民を統制する点で共通語です。 これらの語と対峙する語は、個人やコミュニティに資本および自己決定権を分散させる”共和主義”です。
今の状況は、国家が好きなようにした帝国主義や共産主義と、何ら変わりません。資本家が国家に取って代わっただけです。 戦後の日本の繁栄は、国家統制の反省から得られたのだと私は教わりました。 いつの間に資本家統制を容認する社会へ変質したのでしょうか。
資本家統制を象徴しているのは、現行の消費税の制度です。株などの大口金融取引に我々と同じ消費税はかかっていません。 税を国民の経済活動に広く薄く負担させるのが消費税の目的なら、株取引も含めて一律に消費税を適用させるべきです。 ここに税をかけると自由な競争を妨げると・・・ではなぜ我々の生活の自由な競争には税をかけても良いのか。 そもそも株の目的が会社を育てることであるなら、頻繁に売り買いするものではない。 頻繁な売り買いの目的はただ一つ、利益追求。そこに課税しない理由は、資本による国家統制を社会規範とするからです。
資本に税をかけないのは自由競争社会の核となる機会均等の原理に反します。 真の自由競争社会を実現するには、農林水畜産業や教育を経済競争から切り離すこと、 何らかの所得再配分システムを機能させ、個人対企業などという無謀な競争を妨げる企業規制を復活させ、機会均等を実現することが必要です。
4:私たちの考えに浸透している成果主義
成果を評価するためには、何をもって成果とするかを決めていなければなりません。 課題の構造がハッキリしていれば、課題に向かって努力した量と結果は正の相関関係を持ちます。 構造がハッキリしている課題をdefinded problemといいます。 学校の教科書で学ぶ勉強のほとんどはdefinded problemです。
一方、社会現象のほとんどは、どうやったら問題点が分かるか、そこから議論を始めなければなりません。 例えば、利害関係の調整問題では、長時間の議論を経て、多くの妥協を重ねた調整が必要になります。 全員が妥協できても、全員が満足する結果、つまり、よい成果は必ずしも期待できません。 問題の構造自体が不明確な課題をill-definded problemといいます。
ill-definded problemは、短期間で解決できるものではなく、努力と成果とは必ずしも一致しません。 成果主義を、このようなill-definded problemに対しても機械的に当てはめることは不毛です。 しかし今日の成果主義では、途中の議論や努力を飛ばし、経済指標で無理矢理に換算した最終結果のみで評価されます。 成果を上げることよりも、人を管理しコストのかかる人件費を抑える(減給・解雇する)口実として機能しているとしか思えません。
「効率化」という言葉があります。これもill-definded problemには対応できません。 「もっと便利に、簡単に、難しく考えなくてもすぐにできる。」という言葉。 それを買ったら幸せになれるような錯覚。何か最新の電気製品の広告のようですね。
課題に対して、答えをすぐに求めてはいけません。 ill-definded problemに明確な答えなどないのです。誰も答えを教えてはくれません。 一人一人が時間をかけて考え、解決の方法を探ることしかできないのです。 簡単便利を求めることが、私たちに成果主義を受け入れさせる土壌を生み出していると思います。 なお、自然や子供相手に簡単便利はありません。決して求めないでください。 農林業や教育に、コンビニで物を買うような対価の感覚を持ち込まないでください。